トップページ | 2021年3月 »

2021年2月

2021年2月27日 (土)

 東村アキコさんの漫画『東京タラレバ娘』は純文学だ。

 前のブログで東村アキコさんの『東京タラレバ娘』について少し触れたので、この漫画の印象を書いておきます。テレビドマ化されたようですが、それは見ていません。

 30才過ぎの仕事持ちの独身で友人同士の女性3人が、女子会でそれぞれの恋愛に悩んでいる。「もし~だっタラ」、「こうすレバ」とあれこれ迷うので、結局はっきりと決断できないまま、ずるずると30代前半を、焦りながら、生活しています。ストーリーはありきたりの日常生活ですが、表現力が凄い。絵と文章が調和している。

 これまで読んだ範囲の漫画では、微妙な心理描写が小説ほどには伝わって来なかった。それが漫画の限界かと思っていました。漫画は文字に敵わないのではないか。しかしこの作品は違う。漫画にしかできない表現だと言いたい。文章で表せば数行は必要な場面を、眼や鼻の1ミリほどの微妙な線の変化だけで表せている。この漫画は、純文学の香りがしました(だからいい、と言ってるんじゃなくて、そんな読後感だというだけです)。

 恋人との関係や、職場では若手に追い上げられたり、主人公たちは、相当深刻な状況のはずです。それを漫画にしかできない軽さで、深刻さを優しく包んだので、悩みが暗くならない。漫画描写は優しいので、かえって彼女たちの悲しみがしみじみと伝わってくる。文章だと、こういう表現はできないのでは、と思わせるほどの作品です。純文学の雰囲気を、純文学以上に描写できている。味わいのある作品だと感じました。

 もうひとつびっくりしたのは、作者が、巻末の文章では、この種の女性に必ずしも共感していないことでした。むしろ、冷静に、突き放して見ている。作者さんと作品の関係にぎょっとしました。

2021年2月22日 (月)

コロナ禍での生活の変化

 コロナ禍によって、生活上、変わった点や気を付けていることはあります。しかしコロナが終息して元の生活に戻れば、それらはすぐに忘れてしまうでしょう。ですがもう忘れられない記憶も残りました。リモートワークは多少面倒でしたがすぐに慣れました。すると自分が何を求めているかが、はっきりしました。

 仕事にかまけて、うちの庭は広くもないのに荒れ放題です。家にいることが多くなったので散歩します。ご近所の庭を見ると、広さにかかわらず、どこのお宅もきれいに花が並んでいる。で、花を植えようと思い立ちました。芽が出て花が咲きます。小さいナスができたりすると、幸せな気持ちになりました。 

 モートワークが終わった瞬間、自由な時間が始まります。人間は出来るだけ自由でいて、自分の好きなことをやりたいようです。

 車は身体を自由にし、ブログは好きなことを書けるので、精神的な自由を与えてくれています。若者の車離れが言われますが、自由を手放したんじゃなくて、スマホだと、もっと多くの自由を、安価に手に入れられるからです。スマホは全面的に自由を拡張しています。だけど車もスマホも、余暇時間の自由を充実させただけで、仕事時間を侵食はしなかった。

 自由を楽しむにもお金が必要です。ですからほとんどの人間は、あまり好きではないんでしょうが、働かねばなりません。お金がないと、車もスマホも手に入らない。なので、お金=自由、を手に入れるための仕事間は、侵食できない聖域でした。それどころか、車や機器は「悪用」されて、仕事はさらに忙しく、複雑になっています。

 今回、コロナ禍でのリモート機器の使用が、聖域だった仕事時間とその周辺の時間を侵食しつつあるようです。少なくとも通勤時間が減る。職場の煩わしい人間関係を省略でき、純粋に仕事に集中できる。今日のリモートが終わったら、すぐ時間を自由に使える。高い住費で都心に住む意味が少なくなる⇒自由に使える環境やお金が増える。

 人間を具体的に自由にしたのは、カントやミルや日本国憲法ではありません。トヨタであり、ソニーであり、グーグルです。そしてZoomのような会社が加わりました。仕事関係の時間を減らすという、人類の理想へと、生活が変化する端緒を、コロナが提供したことになります。

 コロナが終われば、僕の仕事は元に戻るでしょう。庭の花も枯れて、うちの庭は、また殺伐となるでしょう。それでも僕だけでなく、多くの人が、理想の生活の実現に近づけることを明確に知ったはずです。それは社会に次第に影響を与えていきます。

 夏の日の、紫色のちいさなナスの花を、僕は目指して生きていくことになるでしょう。

鬼滅の刃を観たぞ

 大評判だから「鬼滅の刃」を観た。どこがいいのか、さっぱり分からなかった。僕は「東京タラレバ娘」のような作品が好きだ。つまりは微妙な心理描写のあるなしが、僕の好みの分岐点なんでしょう。「鬼滅の刃」 にはそれが感じられなかった。ストーリーも単純で平板だ。

 でも唯我独尊でもいけない。常に自省は必要だ。なんで膨大な数の人が「鬼滅の刃」を支持するんだろう。 僕の友人は、鬼にも優しさが感じられるのに共感していました。だけどそれがこれだけの観客を魅了した理由だろうか。勧善懲悪かと思ったがちがう。スポコンものでもない。観客が一定数を超えると内容に関係なく数値が上がるそうだが、その一定数になぜ達したんだろうか?

 これは不条理劇ではないのか。何も悪いことはしてなくても、鬼は次から次へと襲ってくる。まさに現在の状況だ。地震が来て、ようやく落ち着いたら、コロナが来た。その最中にまた地震が来た。それでも挫けることなく、日本人は何度でも戦い続ける。

 「さればもう一度」、ニーチェもそう言ってる。「がんばっぺ福島」。「がんばろう日本」。それで支持されている、と考えていいんでしょうか?だったら分かるような気もします。

2021年2月19日 (金)

『麒麟がくる』の光秀は・・・・・・。

  それで光秀です。今回の描き方は、逆転の秀吉、信長に比べると、正攻法と言うべきでしょう。現在の日本の国是は民主主義、平和主義です。国営放送のNHKがそれを外すわけにはいきません。なので大河ドラマの主人公は全員、民の幸せと天下が平らかになることを目標とします。信長、家康、謙信、信玄、だれが主役でも、これを理念とすることになります。むしろ光秀さえもそうだったという性格付けで、それを信長を倒す原因としたことは、「なるほどなあ」と納得しました。
  それでも主人公ですから、大義名分だけでは性格や行動など細かい表現はできません。信長に気に入られた最大の理由は、秀吉同様「仕事ができるやつ」という能力なのは間違いありません。なので、秀吉の品のなさ、現実主義とは違った意味で「仕事ができるやつ」という場面が欲しい所でしたが、要求しすぎでしょうか。秀吉との対比では、品の良さは表現できていましたが。
  光秀がセリフなしで黙っているのは、つまらないセリフを喋るよりは良かったのですが、表情にもう少し意味を含めても良かったのでは。表情が分かりにくい場面がかなりあった印象です。
    しかしこの脚本全体では、説明的に喋り過ぎて役柄が軽くなるセリフがなく、その分発言に重みが出て、訴求力はあったと思います。また山崎の合戦など、誰もが知っている場面を描かずに済ませる手法は、各所で驚かされましたが、それなりに理解できました。
    光秀を主人公にするドラマはこれからも作りにくいでしょうから、今回の光秀が今後の基準になるのでは、と感じました。

  歴史的事実という点でどのドラマでも問題になるのが、狂言回しです。否定的な見解もかなりありました。しかし例えば、丹波攻めが決まったら、「さあ攻め込もう」という訳ではなくて、状況を探索し、調略し、内部撹乱して、それから実戦になるはずです。そういう前段階の一部を伊呂波太夫のような職種の人たちが担うのは、ありえることでしょう。
  すると「駒ちゃんや東庵先生も必要なのか」となります。この人たちが、朝廷や足利義昭と親しいのは、歴史的事実との一致の検証は難しいでしょうが、むしろドラマの中で一息つく場面と考えていいのでは。歴史的事実とその関連ばかりでは、視聴者は息苦しくなるのかもしれません。

  義景、義昭、正親町天皇など上手な役者さんを揃えていたので、個々の場面に重みがありました。単に人気があるだけで脇役にでも配するのは、やはりドラマの質を低下させると確信できた配役でした。
  帰蝶は道三の娘らしく、怜悧に策略を働かせるのはありそうなことで、可愛いばかりでは、戦国武将の妻は務まりません。代役での出演でしたが、最初からこの役者さんで良かったのではと思った人も多いのでは。
  全体としてすがすがしい作りで、役者さんの選び方も良くて、悲劇的な最期のはずなのに、さわやかな後味だったと、僕は感じました。

2021年2月17日 (水)

『麒麟がくる』では秀吉像が印象に残りました。

   歴史ドラマの楽しみ方は人それぞれです。今回、描かれている人物像は、新しい視点で、かつ納得できる性格になっていた人物が多かったと、僕は感じました。
 今回のドラマで一番新しかったのは、秀吉の描き方だったと思います。「仕事のできるやつ」。光秀が一緒に仕事した時分の秀吉だから当然ですが、この面を前面に打ち出した描き方は、これまで視聴した範囲では思い出せません。
 秀吉といえば、猿に象徴される顔、剽軽、面白さ、俗っぽさと、逆に、最下層から成り上がった者が持つ、人間や社会に対応できる能力、ハングリーな向上心などを複雑に兼ね備えた人物、というのが普通の表現法で、あまりに複雑なのでどの面かを限定的にしか出せないようでした。それでも秀吉に共通する基本は、明るい、ニコニコ顔の秀吉でした。
 しかし今回は「仕事のできるやつ」を前面に出して、ニコニコが少なく、かつ、成り上がり者の品のなさも良く描けていて、これまでにない秀吉の面が出ていました。

   無論これでも1つの面に過ぎず、物足りなさはまだ残ります。『真田丸』での秀吉の優しさと怖さの2面性は説得力がありましたが、それでも、これだけかと物足りなさは残りました。秀吉はほんとうに難しい。
 次に、信長にも感心しました。明るい合理主義者。派手好みの冷酷な男。うまく演じていました。これまでの描き方では、秀吉が基本ニコニコだったのに対して、信長は冷酷、神経質、果断など、笑顔が少ないのが基本でした。しかし今回は、秀吉の基本厳しい合理性丸出しに対して、信長は一貫して基本ニコニコで、従来の信長と秀吉の描き方がひっくり返っていたのが特徴でした。

 確かに、冷酷な合理主義者でも、朝から晩までそんな顔をしていたわけではなく、特に信長は安土城など派手好みな面もあり、基本ニコニコでも、十分納得できました。最初、信長が出てきた時は、「このニコニコ信長じゃあダメだ」とガッカリした人は多かったでしょう。が、回が進むにつれて、だんだん凄みが増して来たのは、役者さんの力量なんでしょう。
 家康饗応の際に光秀を蹴った場面も、家康への警告という意味付けで、最後まで光秀を信用していたという解釈には、頷かされました。秀吉、信長については今後も、様々に描かれるでしょう。これが決定版だというのは難しいでしょうが、今後も楽しみにしておきましょう。
   それで肝心の光秀はどうなんだ、という声が聞こえてきそうですが、長くなるので次の回に。

休業要請と補償をワンセットにするのは間違ってる。

    コロナ禍で、休業要請すると補償するのが当然と考えるのは間違いです。倫理学から言うと、他者の危害になる場合は、自己決定権が制限されるのは、基本原則です。自由を享受できるためには、その限界も合わせて承認しているはずなんです。それは小学校の低学年でさえ知っています。木に登っているのを、「危ないよ」と大人に注意されて、「ひとに迷惑かけてないからいいじゃない」くらいの理屈をこねる子はいますよね。これは他者危害原則に抵触しないと、言ってるんです。
    国が休業要請するのは、コロナがうつる(他者危害になる)からです。そういう場合は休業(自己決定権が制限される)のは当たり前ですから、受け入れるのが当然なのです。休業要請するから、補償する、と言うのは倫理学的には破綻した考え方だと思います。

    「それじゃあ困る人が大勢出るし、結局、国の経済が崩壊するじゃないか」、という意見が起こってくるでしょう。もっともです。だから休業要請⇒補償、が間違いで、休業要請⇒経済の混乱・失業者の増大⇒補償、ならいいんです。
  「ただの理屈だ。結果は同じじゃないか」と言う人もいるでしょうが、それはちがいます。理由は2つです。①「休業要請するから」補償するのと、「経済的な混乱が起こるから」補償するのでは、補償の相手、範囲、規模が異なってくるはずです。「休業要請するから」という考えは、枠が大きすぎて、あいまいです。これが補償に際しての混乱のひとつの原因のようにも感じています。
   ②自由はわれわれ社会の基本的な倫理観です。しかし抽象的なので、具体例が起こったさいに、きちんと確認しておく必要があります。その場限りの情緒的な対応では、せっかくの自由という権利が曖昧なものになってしまうでしょう。
     では具体的に、補償の相手、範囲、規模はどうするのか。それは経済の専門家の仕事です。倫理学がすべての問題に詳細に答えることはできません。一知半解の発言こそ、非倫理的な行為です。ここが経済学にバトンタッチする地点になると思っています。

はじめに

 このブログを「空気が読めない」とするのは、世の中のことや身辺雑事について、世の中では当たり前なことでも、「それは違うんじゃないか」とか、「この意見は分からないなあ」とか、「これについては誰も問題にしないが、もっと考えたほうがいいんじゃないか」と感じることが時々あるからです。哲学や倫理の研究じゃなくて、そういう感じ方をそのまま書こうと思っています。

 

トップページ | 2021年3月 »