コロナ禍での生活の変化
コロナ禍によって、生活上、変わった点や気を付けていることはあります。しかしコロナが終息して元の生活に戻れば、それらはすぐに忘れてしまうでしょう。ですがもう忘れられない記憶も残りました。リモートワークは多少面倒でしたがすぐに慣れました。すると自分が何を求めているかが、はっきりしました。
仕事にかまけて、うちの庭は広くもないのに荒れ放題です。家にいることが多くなったので散歩します。ご近所の庭を見ると、広さにかかわらず、どこのお宅もきれいに花が並んでいる。で、花を植えようと思い立ちました。芽が出て花が咲きます。小さいナスができたりすると、幸せな気持ちになりました。
リモートワークが終わった瞬間、自由な時間が始まります。人間は出来るだけ自由でいて、自分の好きなことをやりたいようです。
車は身体を自由にし、ブログは好きなことを書けるので、精神的な自由を与えてくれています。若者の車離れが言われますが、自由を手放したんじゃなくて、スマホだと、もっと多くの自由を、安価に手に入れられるからです。スマホは全面的に自由を拡張しています。だけど車もスマホも、余暇時間の自由を充実させただけで、仕事時間を侵食はしなかった。
自由を楽しむにもお金が必要です。ですからほとんどの人間は、あまり好きではないんでしょうが、働かねばなりません。お金がないと、車もスマホも手に入らない。なので、お金=自由、を手に入れるための仕事時間は、侵食できない聖域でした。それどころか、車や機器は「悪用」されて、仕事はさらに忙しく、複雑になっています。
今回、コロナ禍でのリモート機器の使用が、聖域だった仕事時間とその周辺の時間を侵食しつつあるようです。少なくとも通勤時間が減る。職場の煩わしい人間関係を省略でき、純粋に仕事に集中できる。今日のリモートが終わったら、すぐ時間を自由に使える。高い住居費で都心に住む意味が少なくなる⇒自由に使える環境やお金が増える。
人間を具体的に自由にしたのは、カントやミルや日本国憲法ではありません。トヨタであり、ソニーであり、グーグルです。そしてZoomのような会社が加わりました。仕事関係の時間を減らすという、人類の理想へと、生活が変化する端緒を、コロナが提供したことになります。
コロナが終われば、僕の仕事は元に戻るでしょう。庭の花も枯れて、うちの庭は、また殺伐となるでしょう。それでも僕だけでなく、多くの人が、理想の生活の実現に近づけることを明確に知ったはずです。それは社会に次第に影響を与えていきます。
夏の日の、紫色のちいさなナスの花を、僕は目指して生きていくことになるでしょう。
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