「中原中也・全詩アーカイブ」です。(推しの「ココログ」といえば)
推しの「ココログ」といえば、「中原中也・全詩アーカイブ」です。
どのブログにも、皆さんの言いたいことが溢れています。その情熱に納得できる反面、作者の思いが押し寄せてくるので、受け止めるのにすごくエネルギーを要します。ほかにも理由はあるんでしょうが、読む際には、ある種の緊張感があります。全力で書いているんですから、それは当たり前のことでしょう。
ところが「中原中也・全詩アーカイブ」 は、わりあい気楽に読めます。中也の詩を読んだことがあるからでしょうが、一番の理由は別の所にある。このブロガー氏は、中也と共に一生を過ごしてきたのか、と思わせるほどに、中也の詩の一言一句に愛情を込めて解説しています。浩瀚かつ詳細。すごい熱量だ。「生きているうちに読んでおきたい中原中也の名作たち」という項もありますが、これらは自信を持って勧めているのではなく、没入した深さが基準になっているようです。
ところがその膨大な熱情は、僕の方へ向かってはこない。氏の視線が中也を凝視しているからです。だから僕は両者を傍で見比べていればいい。ブロガー氏は中原中也に共鳴しながら、闘ってもいる。情熱は激しくぶつかり合っていて、直接、僕の方に押し寄せてくることはない。なので、ハラハラしながらも、安心していられる。全生涯をかけた2人の取っ組み合いを、僕は感動しながら見守っています。手を伸ばせば、本棚に『中原中也詩集』はあるのに、このブログを開くのは、それも一因でしょう。
もう一つ、このブログでは、他の詩人の選択も合わせて、詩について色々考えさせられます。特に、横書きになっているので、左から右へ文が進む。原文はまったく逆で、縦書き、右から左へと移って行きます。紙媒体で読むと、当然、感じが違う。始めから電子媒体、横書きで読んでいる人は、どういう印象を受けているんでしょうか。
はっきりしているのは、中也が、縦書き、右から左へと書いて、発表したことです。横書きになった自分の作品を見ると、きっと何か言うはずだ。ひょっとして大喜びするかもしれない。30年の生涯で、2冊の詩集を上梓しましたが、次の1節だけで、日本文学史に名を刻みました。(きちんと縦にならなくて済みません)。
今 汚
日 れ
も っ
小 ち
雪 ま
の っ
降 た
り 悲
か し
か み
る に
縦書きだと、雪は冬の空からやさしく降ってくる。これを横書にすると次のようになります。
汚 れ っ ち ま っ た 悲 し み に
今 日 も 小 雪 の 降 り か か る
何となく違いますね。どうも変だ。画面か紙かの違いじゃない。何かが違う。例えば。縦書きだと、小雪は上から降ってくるが、横書きにすると、少し風があって、小雪は横斜め上から舞ってくるようにも見える。雪の落ちてくる方向が微妙に異なる。こう考えれば、違いの理由が分かった気になるかもしれない。この感じは具象的な表現に限りません。以下は、『山羊の歌』巻頭の「春の日の夕暮れ」の一節です。新潮文庫版では「嘲」るには「あざけ」とルビが振ってあります。
嘲 私
る が
嘲 歴
る 史
的
空 現
と 在
山 に
と 物
が を
云
へ
ば
私が立っているのはどこだか特定できません。この節では、時間の中の位置が重要のようです。時間は歴史の中の現在です。ですから縦書きだと、宇宙の象徴としての空と山の嘲る声が、私が立っている現在の空間全体にこだましているみたいだ。けれども横書きにすると、やっぱり感じが違う。
私 が 歴 史 的 現 在 に 物 を 云 へ ば
嘲 る 嘲 る 空 と 山 と が
同じ印象にはなりませんよね。この違いはなぜ起こるのか。敢えて考えてみると。嘲っているのは空と山です。横書きだから、空と山が横に並んでいる。春の日の夕暮れで、西の山の端の空は赤く染まっています。つまり嘲る声は、左に見える西の山の方角から聞こえてくる。同じ山と空なのですが、縦書きだと宇宙の象徴になり、横書きだと具体的な西の山と夕焼けの空になる。横書きでは具象的表現で、縦書きでは象徴的になっているとも言える。こんなふうに解釈すると、少しは違いを理解できる気にはなれます。
感じ方の相違が生じるのは、当然とも言えます。もともと漢字は象形文字ですから、文字の中に元の形が宿っている。形は空間の中に位置を占める。したがって縦書きと横書きでは、具象の小雪、山、空だけでなく、抽象的に嘲られている「私」でさえ、空間における他のものとの位置関係によって、その性格が別様に感じられるのではないでしょうか。
ココログは横書きの設定です。詩ほど敏感ではないが、縦書きにした場合と比べると、やはり微妙な意味の差異が出ているかもしれません。
山口県山口市の中原中也記念館には行きました。泊まったのは、すぐの所にある、中也が結婚式の披露宴をした旅館です。床の間を背に新郎新婦で記念写真を撮った座敷には、その旨の木札が付いていました。中庭を隔てた部屋で床に就くと、夜遅くまで宴会の音曲が聞こえておりました。
ブロガーも行かれたことでしょう。
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