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2022年3月

2022年3月26日 (土)

人生を豊かにするのは、小さな冒険である。

ブログを始めてしばらく経って、2カ月で3題、お題の公募があるのに気が付いた。それまでの入選作を読んでみると、役に立つ内容や、ホロリとさせられる文章だったりするし、たいがい写真も付いている。枠組みのいろどりも豊かで、いろいろ工夫がしてあり、親しみやすいものになっている。

そういうことを見るにつけ、文章だけ表現手段じゃないと、つくづく思った。それはとてもいいことだ。色々な表現手段の中から自分に合った方法を、それも1種類だけではなく、何種類も組み合わせて表現する。文章自体も、型に捉われてなくて、自己表現がしやすい良い時代になった。こういうことは前から感じていたので、この種の自己表現の場に、僕の出る幕はないんだろうと思っていた。

お題も、普段あまり考えたことがないようなテーマで、これについて役に立つような文章なんかとても書けない。カメラも持っているが、写真は記録のために撮るだけで、ほんとの素人だし、絵や漫画なんかはとても無理。だからブログは文章だけで愛想がないし、それ以上の飾りのようなものも付けていない。そんなことで、せっかく応募しても落ちるんじゃあ、気が滅入るかなあ、とも思った。

それでも書けそうなお題があったので、軽い気持ちで出してみた。応募したのも忘れていて、ある日、入選にして貰っているのに、たまたま気が付いた。写真も付けず、文章だけで、今風の文体でもなく、論調は堅いし、こんな表現法でもいいと思ってくれたのかなあ、と素直に嬉しかった。古い表現方法も、多様性のひとつとして残るのだろうか、とも思った。

それからお題に投稿するようになった。やってみると、普段使わないような頭の使い方をしていて、視野が広がる気がするようになった。

大きな冒険だと大きな失敗も覚悟しなければならない。小さな冒険だと、得られるものも少ないはずだ。しかし、お題に応募するという小さな冒険で、自分の表現法でもいいんだという、純粋な喜びが得られた。それだけでなく、お題が提示する内容について考えるから、思考の世界がずいぶん広がって、自分の頭の使い方の可能性も知ることが出来た。この小さな冒険では、とても豊かな気持ちになれた。今回で定期的なお題は無くなるそうだ。1年くらい続けていたので、寂しいが、いい経験をさせて貰った。

 

時間を越えて生きる。

時間を、長いとか、短いとか感じることで、僕たちは、2種類の時間を無意識に使い分けていることに気が付きます。

人間の都合に関わらず、時間は均一に流れ続けています。この時間では、時間の長さが重要になる。会議が何時から始まって、何時に終るとか、駅まで歩くと45分かかるが、バスだと15分で着くとか、学校を卒業してもう40年にもなるとかです。時間は均一に流れているから、長さも一律に計算できる。

ところが、愉快な飲み会だと、待ち遠しいし、始まったら短く感じる。つまらない会議は長く思える。つまり、好き嫌いがある事柄だと、時間は一律に流れて行くのではなく、好き嫌いの度合によって、長くなったり、短かく感じたりしています。つまりこの時間には客観的な長さはありません。

もちろん時間が2種類あるのではなく、僕たちが2種類の時間を無意識に使い分けているのです。

時間の要素は、現在、過去、来未です。僕の未来はどんどん近づいて来て、現在を過ぎ、過去になっています。このように、僕たちは、一律に流れている時間の中にいて、刻々と年を取っています。ところがそれに拘束されている訳でもない。というのも僕たちは流されてはいるけれど、いつも現在にいるからです。

だから、僕たちは過去や未来を飛び回れます。現在から過去へ飛んで、小学校の頃の初恋の想い出に浸っ次の瞬間、現在から未来に行って、 1カ月後の外国出張の予定を立て、それからまた過去に戻って、20年前に亡くなった親友のことを思い出したりしています。

僕たちは死後の世界にも行けます。生命保険に入る時、自分が死んだ後のこの世界で、子供たちが僕の葬儀をし、保険会社からお金を受け取っている様子を、死んだ僕は上空から眺めています。実際に僕たちは、過去や未来の好き嫌いのある事柄を飛び回っている。

もちろん現在にいて、桜の花がもう少し長く咲いていて欲しい、と思ったりもします。

この客観的な長さがない時間を知っているから、多分、多くの人は幸せを感じることができるんでしょう。一律に流れている時間の中だけだと、人生はどんどん流れて行くばかりです。それはつらい。

僕も平均寿命まであと何年、と数える年になりました。それは一律に流れる時間の中の真実だ。だが、それでも僕は、今日も現在にいて、自分の過去や未来さえ、はるかに飛び越えて、ビッグバンを考えたり、宇宙の終わりでさえも想像しているのです。

その時僕は、間違いなく、諸行無常を越えているのです。

 

2022年3月20日 (日)

悲しみは徹底した思想によって表現されるべきでしょう(あなたの好きな曲は何ですか?)。

こないだ、ふと藤圭子さんの歌を聞きました。やっぱり「夢は夜開く」はいいですね。歌詞、曲、歌手、この3つが、高いレベルで調和している曲はそうはないと思います。怨歌と言った人がいるそうですが、藤さん以外には歌えない曲だ。歌われている絶望的なニヒリズム。です。

アリストテレスは、悲劇を見ると、心がスーとすると言いました。悲しい歌も同じでしょう。たしかにスーとして、同時に、悲しい曲を聴くことで心が落ち着く。自分と同じく悲しい人がいるのを知って、ほっとする=スーとするのかも知れません。この悲しい気持ちが本来の自分なのだ、だからこれ以上悪くはならない、という気もします。

もっとも好きな歌でも毎日聞くと飽きて来る。だから悲しい歌を聞いた時の自分の位置も、僕の一つの在り方に過ぎないということになりましょう。

ところで残念なことに、「夢は夜開く」では歌詞に一か所傷がある。それは藤さんのせいじゃないが、歌手も曲もいいのに、歌詞の一カ所が全体の雰囲気とズレているのは、どうも気になります。慎重に聴いてみて下さい。主題は徹底したニヒリズムです。著作権の問題もありますから、主要部分だけ抜き出してみます。

( 以下 Keiko Fuji - My Dreams Bloom at Night  Eng sub YouTube · 制作者 skymods 777E からの引用)

「赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく」。

昨日マー坊 今日トミー 明日はジョージか ケン坊か 恋ははかなく過ぎて行き……」。「嘘を肴に酒をくみゃ 夢は夜ひらく」。「前を見るよな 柄じゃない うしろ向くよな 柄じゃないよそ見してたら 泣きを見た……」。

どのような立場、価値にも立つことが出来ない。徹底したニヒリズムの歌詞です。「どう咲きゃいいのさ この私」、「嘘を肴に 酒をくみゃ」いいですねえ。スナックで飲んでいる時の気分だ。「前を見るよな 柄じゃない うしろ向くよな 柄じゃない」。そうです、向くべき方向がない。

それにかすれたようなあの声。「夢は夜ひらく」と繰り返すことで、救いのかすかな希望も持っているようだが、それも極めて不確かだ。かえってニヒリズムの闇をさらに暗くしています。

ところがこの歌詞の中で、一カ所だけ全体と調和しない部分があるのは残念だ。最後の部分です。「一から十まで、馬鹿でした。馬鹿にゃ未練はないけれど、忘れられない、奴ばかり。夢は夜ひらく、夢は夜ひらく。」。なぜ「忘れられない、やつばかり」なんでしょうか。これでは全体の雰囲気が壊れてしまいます。というのも「昨日、マー坊、今日、トミー。明日は、ジョージか、ケン坊か……」だったはずです。全員、自分にとってはどうでもいい連中だ、という調子の歌だった。ですから、彼らが「忘れられない、やつばかり」になるはずがない。

全体がニヒリズムの中で、この部分だけが妙に救われていまこれはヒューマニズムだ。皆、名前も思い出せなくなって、おそらく自分も含めて「馬鹿にゃ未練はない」はずなのです。 そして自分は、今日も酒場街の路地裏をさまよう、みたいな詞であるべきでしょう。色々理屈は言えましょうが、ニヒリズムが不徹底だと、僕は思います。

悲しい歌でも、やっぱり救いが欲しいんでしょうか。それも悪くはありませんが、徹底した思想であってこそ、真の悲しみが表現できるのでは。悲劇も、救いがないから悲劇なのであって、最後に救いが来ると、それは下手な喜劇になりかねない。それではアリストテレスの境地に達しない。

それにしても、藤さん自身が悲劇的な死を選ばれたことで、ニヒリズムが完成してしまったのは、痛ましいことです。歌詞の傷など、現実のニヒリズムに押し流されてしまいました。

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