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2022年3月20日 (日)

悲しみは徹底した思想によって表現されるべきでしょう(あなたの好きな曲は何ですか?)。

こないだ、ふと藤圭子さんの歌を聞きました。やっぱり「夢は夜開く」はいいですね。歌詞、曲、歌手、この3つが、高いレベルで調和している曲はそうはないと思います。怨歌と言った人がいるそうですが、藤さん以外には歌えない曲だ。歌われている絶望的なニヒリズム。です。

アリストテレスは、悲劇を見ると、心がスーとすると言いました。悲しい歌も同じでしょう。たしかにスーとして、同時に、悲しい曲を聴くことで心が落ち着く。自分と同じく悲しい人がいるのを知って、ほっとする=スーとするのかも知れません。この悲しい気持ちが本来の自分なのだ、だからこれ以上悪くはならない、という気もします。

もっとも好きな歌でも毎日聞くと飽きて来る。だから悲しい歌を聞いた時の自分の位置も、僕の一つの在り方に過ぎないということになりましょう。

ところで残念なことに、「夢は夜開く」では歌詞に一か所傷がある。それは藤さんのせいじゃないが、歌手も曲もいいのに、歌詞の一カ所が全体の雰囲気とズレているのは、どうも気になります。慎重に聴いてみて下さい。主題は徹底したニヒリズムです。著作権の問題もありますから、主要部分だけ抜き出してみます。

( 以下 Keiko Fuji - My Dreams Bloom at Night  Eng sub YouTube · 制作者 skymods 777E からの引用)

「赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく」。

昨日マー坊 今日トミー 明日はジョージか ケン坊か 恋ははかなく過ぎて行き……」。「嘘を肴に酒をくみゃ 夢は夜ひらく」。「前を見るよな 柄じゃない うしろ向くよな 柄じゃないよそ見してたら 泣きを見た……」。

どのような立場、価値にも立つことが出来ない。徹底したニヒリズムの歌詞です。「どう咲きゃいいのさ この私」、「嘘を肴に 酒をくみゃ」いいですねえ。スナックで飲んでいる時の気分だ。「前を見るよな 柄じゃない うしろ向くよな 柄じゃない」。そうです、向くべき方向がない。

それにかすれたようなあの声。「夢は夜ひらく」と繰り返すことで、救いのかすかな希望も持っているようだが、それも極めて不確かだ。かえってニヒリズムの闇をさらに暗くしています。

ところがこの歌詞の中で、一カ所だけ全体と調和しない部分があるのは残念だ。最後の部分です。「一から十まで、馬鹿でした。馬鹿にゃ未練はないけれど、忘れられない、奴ばかり。夢は夜ひらく、夢は夜ひらく。」。なぜ「忘れられない、やつばかり」なんでしょうか。これでは全体の雰囲気が壊れてしまいます。というのも「昨日、マー坊、今日、トミー。明日は、ジョージか、ケン坊か……」だったはずです。全員、自分にとってはどうでもいい連中だ、という調子の歌だった。ですから、彼らが「忘れられない、やつばかり」になるはずがない。

全体がニヒリズムの中で、この部分だけが妙に救われていまこれはヒューマニズムだ。皆、名前も思い出せなくなって、おそらく自分も含めて「馬鹿にゃ未練はない」はずなのです。 そして自分は、今日も酒場街の路地裏をさまよう、みたいな詞であるべきでしょう。色々理屈は言えましょうが、ニヒリズムが不徹底だと、僕は思います。

悲しい歌でも、やっぱり救いが欲しいんでしょうか。それも悪くはありませんが、徹底した思想であってこそ、真の悲しみが表現できるのでは。悲劇も、救いがないから悲劇なのであって、最後に救いが来ると、それは下手な喜劇になりかねない。それではアリストテレスの境地に達しない。

それにしても、藤さん自身が悲劇的な死を選ばれたことで、ニヒリズムが完成してしまったのは、痛ましいことです。歌詞の傷など、現実のニヒリズムに押し流されてしまいました。

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