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2022年10月

2022年10月25日 (火)

萩には高杉晋作が、いまでも生きている。

萩には、友人がいることもあって時々行く。訪れたことがない人でも想像できるような、古い屋並みと、道幅の町である。そこかしこに、維新の頃に倒れた人たち、主として若者たちの表示と案内板が立っている。

こういう古い町を歩いていると、僕自身も歴史の中のかすかな一人に過ぎないことが、身に染みて理解できる。自分の小ささと、当時の若者に比して、自分が安楽に生涯を生きてきたことへの少しの後ろめたさと、自分が何者でもないことの遺憾と、その状況の中で、この世を離れて行くことへの、寂しい安心感などもある。

吉田松陰や高杉晋作のような生涯を送らなかった僕は、その代わりに小さな平穏と言うしかない生涯を送ったが、僕はこういう風にしか生きられなかった。それは萩を訪れる大勢の人間も感じることだろう。

しかし萩在住の知人たちと話していると、彼らがいまだに松陰や晋作に熱い思いを心の中に持っていることが伝わって来る。彼らは僕とは違って、高杉晋作のように生きたかったと思っているし、人生はそうあるべきだと、いくつになっても決心しているように感じられる。

僕から見ると、知人たちの生涯も僕のそれとそれほど変わらないと思えるが、なぜか彼らは、今でも熱いのである。それはこの地で生まれ育った者達のみが受け継いでいる、地霊とも言うべきものだろうか。

それぞれの土地は、それぞれの歴史を持ち、その歴史の中でもっとも熱い時代の息吹が、いまだに伝わっているようだ。僕はそれを眺めているだけである。すると僕が歴史の中の砂の一粒に過ぎないことを思うしかないのである。

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